国賠地裁判決目次 国賠控訴審第二次文書提出命令申立却下決定最高裁逆転無罪判決解説

第六 争点に対する当裁判所の判断

 一 争点一(検察官の公訴提起及び公訴追行の違法性の有無)について

  

1 公訴提起の違法性判断基準

 刑事裁判における被告人は、本来、理念的には「有罪判決が確定するまでは、無罪と推定される」とされてはいるが、現実には、我が国では、起訴されたことそれ自体によって、既に有罪判決を受けた場合と同じほどの社会的評価を受け(我が国では有罪率が99パーセントを越えていることからも頷ける。)、そのことによって被る被告人の有形・無形の不利益は大きく、法律上の不利益処分を受けることもあるから、検察官による公訴の提起は、一応の証拠に基づく主観的な嫌疑のみに基づいて、なされるべきではないものといわなければならない。

 しかしながら、一方において、公訴の提起は、検察官の裁判所に対する、犯罪の成否、刑罰権の存杏について審判(判断)を求める意思表示にほかならないのであるから、必ずしも有罪判決が得られるという客観的確信の存在(刑事裁判官と同じ程度の確信)までを必要とされるものでないことは当然である。

 結局、起訴時における各種の証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により、判決において有罪と認められる嫌疑(蓋然性)が存在する場合においてのみ、公訴を提起すべき職務上の義務があるのであって、それで足りると考えるべきである。

 換言すれば、右程度の犯罪の嫌疑が存在する場合に限って起訴するのが、検察官の職務上の義務であり、証拠の証明力の評価の仕方について通常考えられる個人差を考慮に入れても、有罪の判断が行きすざで、経験則・論理則に照らして、その合理性を肯定できない場合には、かかる公訴の提起は違法となると解するのが相当であり、刑事事件において無罪の判決が確定(本件においては、最高裁での本件無罪判決の確定)したというだけでは、公訴の提起が違法となるものでないことはいうまでもない。   

2 起訴検察官の本件公訴提起の違法性について

   

(一) 原告は、起訴検察官が本件公訴提起時点で有していた証拠によると、有罪判決を期待しうる合理的根拠のない違法なものであったと主張するが、その要旨は、左記のとおりである。
(1)原告車両は本件事故前に既に事故現場を通過していた、いわゆるアリバイの成立
(2)右後輪付着物の付着機序及び轢過態様の矛盾
(3)本件検問時における右後輪付着物の見落とし及びその発見等
(4)原告の異常走行体験供述に関する取り調べ
(5)その他、ポロシャツの廃棄処分
             

(二) そこで、以下検討する。  

(1) いわゆるアリバイの成立について

 まず、この点については、検察側は、本件上告審においても、バス運転手の供述の信用性を否定して、バスが本件事故現場に到着したときは既に被害者は原告車両に轢過された後であったとの主張を維持しているところであって(乙316)、本件一、二審判決と立場を異にしていることを看過してはならない。その意味においては、本件一、二審のみならず本件上告審までが一致して信用性を認めたバス運転手の供述を信用しなかったことが、起訴検察官として合理性を欠く判断であったというべきか否かであるが、バス運転手の供述と本件事故後の客観的情況や中川の目撃供述と比較したとき、矛盾するところもなく、すなわち、事故前の情況を述べたものとして信用性を認めるのが自然であるといえるものの、[1] 右供述は、徐行していたとはいえ、走行中のバスの運転席からの観察であること(乙194)、[2] 従って、供述自体被害者の生存を確認した内容となっていない、あいまいな供述であること(乙194)、[3] 原告車両と本件事故との関連を示すその他の客観的証拠である横山鑑定(乙168)、阿部鑑定(乙289)と矛盾する供述であること、[4] 更には、原告の異常走行体験供述が存在したこと(乙183、184)、[5] 本件事故と関連する通行車両としては、具体的には原告車両を除いて捜査の対象となる車両の存在が確認できなかったこと(中川の公判供述において冷凍車があらわれるものの、本件公訴提起時の捜査記録では、その存在を親わせるようなものは認められない。)、等の総合的判断をした結果、バス運転手の供述の信用性を否定し、原告車両と本件事故の関連性ありとして、すなわち、原告主張のアリバイは成立しないと判断して本件公訴を提起したものであることが認められる。

 そうであるとすると、本件無罪判決の指摘する捜査段階の問題点(本件検問時での右後輪付着物の見落とし、右後輪付着物の発見経緯、原告の異常走行体験供述及び轢過態様の検討等)があったとしても、それらの矛盾点は、後に詳述するところであるが、公判を通じて(それも本件一、二審が見落した点である)はじめて明らかになったことを考慮すると、起訴時点における起訴検察官としては、右問題点の検討を充分にしなかったとしても、経験則や論理則上、到底首肯できないほどの不合理な心証形成をしたものと、非難することは相当ではなく、本件公訴の提起には、国賠法上の違法は存在しないものというべきである。  

(2) 右後輪付着物の付着機序及び轢過態様の矛盾

 起訴検察官が、右後輪付着物が被害者の血液型と一致したという鑑定結果(横山鑑定・乙168)及び原告事両のラジエーター部分から採取した布目痕が被害者が本件事故時に着用していたポロシャツの布目痕と一致したという鑑定結果(阿部鑑定・乙169)を本件公訴提起を支えた重要な証拠の一つとしていたことを認めることができる(被告A本人)。

 しかしながら、これらの鑑定結果を証拠とすることができるのは、これらの付着物及び布目痕等が本件事故の際に付着したこと(つまり、本件事故との関連性)が明らかであることが必要であるところ、本件公訴事実が「被告人車両が時速約40キロメートルで進行し、その右後輪で進路上に横臥していた被害者の頭部、胸部等を轢過した」としていることからすれば、時速約40キロメートルで進行する車両が路上横臥者を轢過した場合、どのような付着機序により、右後輪付着物として被害者の血扱が付着し村るのか、また、布目痕が付着したとされる高さに横臥中の被害者がアノラックの下に着用していたポロシャツが接触しうるのか、さらに、本件公訴事実を前提とすれば、布目痕と右後輪付着物等がともに付着するような轢過態様がありえるのかという各点について疑問が生じ、起訴検察官は、本件公訴提起時において、右各点を十分に検討しないまま起訴したのではないかとも思われる。

 この点について、本件公訴提起時において起訴検察官は、轢過態様については、路上に横臥していた被害者が、原告車両の車体下部に巻き込まれて右後輪で轢過されたという程度の認識しかなく、それ以上証拠に基づく子細な認識は有していなかったことが認められる(被告A本人)。

 しかしながら、他方において、交通事故における轢過態様を正確に把握することは、機械工学的もしくは力学的な観点からの交通事故専門の鑑定結果を待たないと、極めて困難な場合も多く、
 [1] 人体が、自動車に接触したり、轢過されたりした場合に跳ね上げられたり、巻き込まれたり、回転したりすることも往々にしてあると思われること
 [2] 事故の際の付着物等の付着がいわゆる一次付着か二次付着かは明確には判別しにくいこと
が認められる。

 したがって、前記のとおり、轢過態様を正確に把握するためには、専門家の鑑定等を必要とするが、捜査体制における人員、時間、費用に限界がある以上、鑑定を依頼するかどうかはその事件の罪種、被験者の供述内容等その他の客観的証拠関係等を総合して決せられるべきであるところ、前記認定のとおり、捜査段階での横山鑑定及び阿部鑑定がいずれも、被害者に由来するものと解しても矛盾しないという結果を示しており、通常、別個の鑑定資料が互いに事故との関連性を示すことは高い信頼性があると考えても不自然ではないこと、更には、相当関係者の供述から加害車両が原告車両を除いて特定するに至らなかったこと及び原告の異常走行体験供述もあること等を考慮して、起訴検察官は、原告車両を加害車両と判断しえることに合理的な疑いを入れるとまで考えなかったため特にそれ以上の精密な鑑定を依頼する必要性を感じなかったこと(被告A本人)等を考慮すれば、起訴検察官が轢過態様や付着機序について、手持ち証拠以上の精密な検討をせずに原告に有罪の嫌疑があると判断して特段鑑定等を依頼しなかったとしても右起訴検察官の措置及び判断が不合理であったとはいえない。

 また、本件被害者のポロシャツを含む着衣が本件公訴提起以前に被害者の家族に還付され、その者によって焼却処分されていることについては、その関連性を否認する被告人の立場からすれば、反証活動を制限されたという意味において、公正な公判手続を行うことが義務づけられている検察官としては、妥当性を欠く措置ということができるが、翻って検討すると、右還付と焼却の事実は、被告人の有力な反証的資料とも解しうるものであって、かえって、検察側に不利な事実と評価できる部分であり、実際にも、本件一、二審判決においては、布目痕による本件事故との関連は判断されていないこと(甲二、三)に鑑みると、決して望ましい措置とはいえないにしても、右着衣の焼却処分が、その後捜査を引継いだ起訴検察官の本件公訴提起の適法性に直接影響を与えるものとは解されず、著しく不相当とまではいえない。

 なお付言すると、起訴検察官が横山鑑定及び阿部鑑定を踏まえて本件公訴提起に至っていることは明らかであるが、現在の捜査実務においては、捜査段階の鑑定結果をもとにその後の捜査方針等が固められ、捜査が進められるというのが実情であり、警察内部の鑑定であっても、科学的方式等によって得られた鑑定結果に対しては、他の証拠関係から明らかに誤っていると認められるような特段の事情を除き、信用性を認めて公訴提起の手続をしたとしても、なんら違法ではないと解されるところ、起訴検察官が本件公訴提起時に有していた証拠を精査しても、本件公訴提起時においては右特段の事情があったとは認められず、起訴検察官が前記鑑定を信頼したことにはなんらの違法もないと解される。  

(3) 本件検問時における右後輪付着物の見落とし及びその発見等について

 原告車両が本件検問を受けた際、右後輪付着物が発見されなかったことは明らかであるが、本件一、二審においても、その原因・理由については検察、弁護側間で重大な争点とされ、結局は、本件一、二審判決の判断は検察側の理由を是として弁護側の主張をいずれも退けたものであり、その当否はともかく、原告の主張のように公訴提起の段階で、右後輪付着物を「見落としたのではなく」、「存在しなかった」との判断ができた筈であるとの仮説が通常の検察官であれば行えたか否かは、本件刑事記録を精査しても、にわかに即断できず、本件無罪判決の判断を待ってはじめて可能というほかなく、起訴検察官の認識が裁判官と同じ程度の心証を求められるものではないことに鑑みると、その違法を責めることは酷といわねばならない。

 この点を具体的に検討するに、  [1] 検問にあたった警察官が、本件検問当時、未だ、本件事故態様を正確に把握していなかったと考えられること(乙159、184、296)
 [2] 走行中の車両が歩行者を轢過した死亡事故の場合の多くは、歩行者に車両の前部等を衝突させるという事故態様であり、本件が轢き逃げ死亡事故との報告しか受けていなかった前記警察官らが、主に原告車両の全面を中心に見分して、その痕跡の発見に努めたが、その痕跡が見つからなかったために、右後輪付着物の付着部分である後部車体部分の見分を疎かにしたとしても、検問時間が僅か5分程度の検問としては不自然とはいいがたいこと(乙184、296)
の各点が推定され、起訴検察官が、本件公訴を提起するにあたり、右後輪付着物を検問時に比落としたと判断したことに合理性がないとまではいえない。(なお、本件一、二審判決は、更に見落としの理由を右のほかに述べているが、それらは、かえって、右後輪付着物の不存在を否定するためのもので、証拠資料から必然的に導かれる推定の域を越え、説得力のあるものとはいいがたい。)

 また、原告は、右後輪付着物の発見、採取過程について、あいまいな部分があるのではないかと主張するが、
 [3] 本件において採取されたものは、いずれもいわば道路に流れ出した血液と同じような被害者の遺留物であると考えて採取したのであろうと考えられるが、そのような場合や領置に値しないものが採取されたときには必ずしも領置調書等を正式に作成せずに採取報告書のみでまかなうことも考えられないではないこと
 [4] 本件においては各種報告書等(車当たり捜査査報告書・乙172、血痕及び毛髪らしい付着物採取報告書・乙173、現場採取報告書・乙174、現場採取報告書の送付について・乙185)でその採取過程は、一応明らかにされていること
 [5] 本件無罪判決により、問題ありとして否定されはしたが、本件二審判決において、一応、検察官主張が肯定されていること
等からすれば、起訴検察官が本件公訴提起時において、右付着物の採取過程に問題ないと判断したことが不合理とはいえない。  

(4) 原告の供述の信用性及び取調べの懈怠について

 原告の主張するところは、異常走行体験供述の記戦がある原告の50・12・23員面調書及び50・12・24員面調書が存在する一方で、原告の51・12・6検面調書においては、原告が本件事故を起こしたことを否定する方向へ供述を変更していたのであるから、起訴検察官としては、原告に供述の変遷が生じた理由や司法警察員の原告に対する取調べ情況等を検討し、供述内容の真偽について、再考し、そのために少なくとも起訴前には、原告を直接取調べて異常走行体験供述の弁解を聴取すべきであったと、いうものである。

 そこで検討するに、起訴検察官が本件公訴提起に当たって、
 [1] 原告の員面調書における異常走行体験供述については、なんら身納を拘来されることもなく取調べがなされていること(乙183、184)
 [2] 一通の員面調書のなかに、最初は本件事故を否定するような内容の供述が記載された後、本件車故を認める供述が記載されるなど、取調べの経過に沿った供述調書になっていること(乙183)
 [3] 同じ内容の調書が2日続けて作成されていること(乙183、184)
 [4] 実況見分において、原告が事故現場に極めて近接する場所で異常走行体験を感じた旨指示している一方、原告に異常走行体験の場所の指示説明を求めた際に、先ず警察官から実際の現場はここであるけれども、原告の異常走行体験はどこであるのかというような誘導なり、あるいは現場に事故の痕跡等が残存していて、原告の指示説明に影響を与えたようなことがあったことは実況見分調書等からは規われず(乙289、170、196)、原告の員面調書でも、自分の記憶で話したのち実際の事故現場を教えてもらったということになっていること(乙184) 
 [5] 原告の異常走行体験供述が、他の轢き逃げ事件の場合の異常走行体験と若干異なった供述内容を持っていると思われるとともに、内容が具体的であって、公訴提起の段階における判断としては未体験者の想像による供述とは認めにくいと考えても無理がないこと(乙183、184)
 [6] 現場付近にある消雪パイプは、高さが約2センチメートルほどであり、原告の異常走行体験供述が、それへの乗り上げと混同したものとは思われないこと(乙159)
 [7] 異常走行体験供述を否定する原告の51・12・6検面調書も、本件事故後1年を経過したあとの供述であるほか、すぐそれに続けて「私の後車輪で轢いているのかもしれません。」と供述し、自分が事故を起こしたのではないかというふうに供述していることが認められ、通常、それまで犯行を認めていたものが一度否認に転じると、再度事故との関連性を認める供述をすることは稀であり、それも任意性が高いと思われる検察官の面前での調書においても、結果的に本件事故と関連する可能性に言及していること(乙195)
などを総合して、原告の員面調書における異常走行体験供述を信用したとしても、その信用したことに、起訴を違法とするほどの不合理性があるとは考えられない。

 そして、起訴検察官は原告の員面調書2通と検面調書の記載を読み比べて、内容が食い違っていることから、直接原告を取調べた鈴木副検事に電話をし、事件についてのいわゆる検察官としての感触というものを尋ねた上で、これ以上原告を取調べる必要がないと判断したこと(被告A本人)、そもそも本件事件は原告の現在地で捜査を行うという検察庁の方針のもと仙台地方検察庁古川文部に事件が移送されて取調べが行われ、そこで検察官による原告の取調べも行われ、一応の捜査が完了し、その時点での証拠で十分公判維持が可能であるとの判断の結果、新潟地検に再度移送され、起訴検察官が主任検察官として起訴するに至ったという経緯(被告A本人)に加えて、前記のとおり異常走行体験供述に信用性があるとしたこと等を考慮すれば、再度の原告取調べが必要でないと起訴検察官が判断したことに、国賠法上の違法は認められない。   

(三) まとめ

 以上のとおり、本件公訴提起時の関係証拠を総合勘案すれば、起訴検察官が、合理的な判断過程により原告に有罪と認められる嫌疑があると判断して、本件公訴を提起したとしても、前記のとおり、本件刑事事件の経緯(本件一、二審とも丹念な証拠調べが行われ、その結果、有罪認定がなされていること)をも含めて考慮すると、右検察官の判断について、国賠法上の違法があるとまで解することは相当でないというべきである。  なお、原告は、甲4号証(「捜査実務の基本−無罪事件に学ぶ−」司法研修所検察教官室編)を引用し、検察庁自身も本件公訴提起が違法であることを認めていると主張するが、甲4号証は、検察官に対するいわゆる教材として、検察官のあるべき姿を理想として記載しているのであって、その基準が直ちに実務に求められている義務及び国賠法上の違法性の基準を示しているのではないことは明らかであり、甲4号証から本件公訴提起が違法であるということはできない。   

3 検察官の公訴追行の違法性

 検察官の公訴追行は、公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程によって有罪と認められる嫌疑があれば、違法とはいえず、原則として、公訴提起が違法でないなら、その追行も違法でないものと解される。

 従って、公訴提起自体に違法が認められない事実においては、新たに収集された公訴追行時の証拠によって、公訴提起時における証拠関係がことごとく崩され、もはやこれらの全証拠を総合勘案しても有罪と認められる嫌疑が存在しないという特段の事情が認められなければ、その公訴追行が違法であるとはいえない。

 本件の場合、前示認定のとおり、公訴提起時の証拠関係から公訴提起自体が適法であり、また、その後の公判に提出された証拠関係によっても、公判立会検察官が、公訴を維持すべきでない特別の事情、すなわち、別に加害車両が発見された等、明らかに被告人を無罪とすべき事情があったわけではなく、本件一、二審の公訴を維持した公判立会検察官が未だ原告を有罪と認められる嫌疑が有ると判断したことに合理性がないとはいえず(本件上告審で取り消されたとはいえ、本件一、二審判決が有罪を維持している。)、本件公訴追行が違法であると認めることはできない。


作成責任者:町村泰貴
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