国賠地裁判決目次国賠控訴審第二次文書提出命令申立却下決定最高裁逆転無罪判決解説

 二 争点二(国賠法の対象としての裁判の違法)について

  1 従来、裁判官の職務行為、殊に、裁判官の判断作用の結晶ともいうべき判決、決定等に国賠法の通用があるか否かについては、論議されてきたところであるが、現時においては、国賠法は、旧憲法時代の国家無答責の原則を放棄し、国の公権的作用による被害者の救済を図るため、憲法17条の精神にのっとって制定されたものであり、公権力の一部であることの明らかな裁判行為について、これを特に除外する理由はなく、国賠法1条の文言も「公権力の行使に当たる公務員」と定めるのみで裁判官を除外していないし、国賠法制定の際の国会審議の過程でも、裁判官についての適用は当然のこととして受けとめられてきたことは周知のところであり、当裁判所も、裁判官の職務行為全般について、国賠法が適用されるべきであることを、当然の前提とするものである。

  2 しかしながら、従来の裁判例によると、その多くは、有効に確定した判決と上訴もしくは再審において取り消された判決とを区別することなく、確定判決についても、当然に国賠法の適用のあることを前提としているかのようであるが、後記のとおり、司法制度の本質ともいうべき裁判の独立及び三審制度の理念、または、最終的に確定した判決のもつ様々な効力との比較から見たとき、有効な確定判決と上訴あるいは再審で取り消された判決とを同一に論ずることが果たして妥当であるかについては、疑念を抱かざるを得ず、従来において、漠然と、その通用を肯定してきたことには問題があるといわねばならない。

 もちろん、従来の多くの説が述べるとおり、抽象的には、前訴である確定裁判を国賠法の違法の対象とすることと前訴が上訴もしくは再審により取り消されることとは、その制度目的を異にし、三審制度や裁判の独立の原則に悸るものではないといい得るが、更に、具体的事件に即応して検討してみたとき、上訴もしくは再審手続によらないで、直ちに確定判決に国賠法の適用を認めた場合に生ずる具体的矛盾と弊害について、左記のとおりの各点を考慮せざるを得ず、実際には、多数説の立場に立って確定判決を国賠訴訟の対象とすることを是認したとしても、従来の裁判例から明らかなとおり、有効に確定した判決について、賠償着任を課すべき違法性を見い出すことは希有なことであり、その意味において、確定判決を国賠法の対象の枠に取り込むことにより国民の期待に答えることができる旨の理由は、全く空疎なものであることが明らかである。

      記

  (一) 確定判決に国賠法上の違法を問い得るほどの瑕疵があるならば、その確定前の上訴手続においてその瑕疵を理由に取り消されて然るべきであり、仮に誤って上訴の手続をとらずに確定させたとしても、かかる瑕疵を包含する判決に再審理由の存在しない筈はなく、その理は変わるものではない。当該判決の不当を是正する道が残されている以上、その目的が異なることを理由に、別訴で国賠法の適用を認めることは、実質的には、前訴の有効性を三審制手続の枠外で審理することを意味し、司法自らがその有する制度を否定することに繋がり、自己撞着の論理といわねばならない。
 換言すれば、上訴、再審においても取り消されない判決は、裁判制度の本質上、法的紛争の公権的解決方法として確定の効果を付与されているのであるから、三審手続・再審手続を除いて、他にその不当性を繰り返して訴える道はなく、当然のことながら、制度目的の違う国賠訴訟においても許されないものと解するのが相当である。

  (二) 違法な行政処分について、その取消しを待つことなくその違法性を国賠訴訟で問いうるところから、その対比において、確定判決も同じ公権力の行使であるから、一見、行政処分と区別する理由がないともいえるが、行政処分は、後見的、潜在的に、裁判所の司法審査の対象となるものであってその取消しを待つことなく国賠訴訟の対象となって当然であり、判決手続と同一に論ずることはできない。

  (三) 最も重要な点は、確定判決について、国賠訴訟を認めないと解することによって、確定判決に対する敗訴者の理由のない不満を国賠訴訟に求めようとする不当な濫訴を防止することができるということである。その結果、真に国賠において違法を問うべき事案(真に救済を相当とすべき事実)について、裁判所の充実した審理を期待することができ、かえって、憲法17条の趣旨を全うすることができるというべきである。  換言すれば、制度目的を異にすることを理由に認められる国賠訴訟においても、結局は、確定した前訴の不当性が争点となるのであるから、前訴の蒸し返しに終始することは必定であり、何故に三審制度を設けたのか、その意義を失う結果にもなりかねず、結局は、国賠訴訟の門戸を広げたとしても、悪意・不法目的という特別の事情をもって、前訴の違法性を極端に制限し、実質的には門前払い同然の形で請求を棄却しているのであるから、なんら国民の期待に答えていないというべきである。

  3 ところで、上訴もしくは再審で取り消された判決が、いかなる場合に国賠法上の違法に当たるかについては、様々に論じられているので、その点についてまず検討することとする。    

(一) 結果違法説について

 前訴裁判が上訴、再審等によって違法として取り消されれば、それによって当然に前訴裁判の違法性は確定され、国賠法上も前訴裁判は違法として取り扱われるべきものであるとする見解がある。

 しかしながら、たとえ、前訴が上訴、再審等で取り消されたとしても、それが、単に事実認定や、法令解釈についての見解の相違に過ぎない場合もあり、そのような場合にまで、国賠法上違法であるとすることは、法が自由心証主義を定めた趣旨を没却し、また、法令解釈についても、時代の変遷、社会的状況の変化により、最高裁の判例で確立された解釈さえも、変更されるものであることは今までの裁判例を検討するまでもなく明白であって、従って、客観的に不変で、かつ、絶対的に正しい解釈というものがありえないことを考えれば、取り消された判決が当然に違法となる見解の不当であることは明らかであり、当裁判所の採用するところではない。    

(二) 違法性限定説について

 裁判官の職務行為が違法となる要件を、裁判官の悪意、すなわち、「不法な目的」をもって裁判を行ったなどの特別事情がある場合に制限する見解がある(ただし、昭57・3・12最高裁判決が特別事情を限定列挙とするのか、例示列挙としているのかは定かではない。)。

 確かに、国賠訴訟の審理において違法の範囲を限定せずに拡大すると、前訴裁判の審理内容の当否にまで立ち入って、その事実認定及び法令解釈等の違法性を審理することになり、前訴裁判の裁判官が別訴の裁判官から自己の行った裁判の審理内容を検証され、司法権の外部からはもちろん内部からも一切の圧力を受けないという「裁判の独立」が犯されることになるとの懸念が生ずる。

 しかし、右のように「不法な目的」を要件と解した場合、国賠法1条1項が明文で「故意又は過失」を要件としていることと整合しないと考えられるのみならず、裁判の独立に基づく本質論は、有効に確定した裁判については、当てはまるとしても、前記のとおり、上訴や再審により取り消された判決についてまで、それによる保護を必要とすべき理由は見出しがたく、右の考え方をもって、違法を限定することの正当な理由となるものではない。

 更に、裁判官が重大な過失により事実誤認した場合までも、それの是正のためになされた上訴による損害について、これを当事者に自己負担させるべき理由(仮に些細な額であったとしても受忍限度論をもって、片づけられるものではない)はなく、悪意のないことを理由に請求を棄却するのは不当な処分であって、その損害は原則的に国家が負担してこそ、裁判の適正手続の保障を実現することになるというべきである(その意味においては、刑事補償法が身柄を拘禁された者に限って補償することにし、非拘禁者に対しては何ら手当てしていないが、刑事補償法が制定された昭和25年当時はともかく、経済大国といわれる今日の我が国の現状においては、刑事被告人とされて損害を被らない者があろう筈がないのであるから、拘禁、非拘禁を問わず、全ての刑事被告人に対して、相応の補償を検討すべきであるとともに、実際には、画餅と化している国賠法の賠償責任に基づく損害填補制度に終止符を打つべく、過誤裁判一般に対する補償制度への道を開くべき時であろう。)。

 そのうえ、後述するように、裁判手続上、普通の裁判官の過失はあり得るものといえても、当事者に村して悪意をもって裁判する裁判官が存在するなどということは、例えとして引用されることはともかく、現実の普通の裁判所に起こりうることは希有なことであり、仮にあり得たとしても、その立証は裁判官の内心の開示を求めることであって不可能を求めるに等しいものといわねばならず、その意味からすれば、たとえ、裁判の本質論やそれの内在的制約によりその違法性の認定が至難であることを理由として、違法性を悪意の場合に限定することは、結局は、裁判官を国家賠償の対象から除外する、いわば、聖域に置く論理そのものであり、裁判が国民から負託されたものであることを忘れた論理との非難は必定であり、そのうえ、客観的に明らかな誤りを冒した裁判官を正当化する身内の論理と極論される懸念さえあるというべきである。

 よって、当裁判所は、違法性を特別事情に限定する右の立場には賛同できないものである。    

(三) 当裁判所のとる違法性判断基準

 以上を前提に、裁判官の職務行為の違法性を検討するが、本件「二審判決で問われている違法性は、刑事裁判の事実誤認における違法性であるから、以下、その点にしぼって論ずることとする。

 一般に法令解釈は、いずれの解釈が当該事例の解決に適しているかの判断作用、すなわち、価値判断に基づく当てはめの作業であり、それぞれのよって立つ立場の違いによって分かれる価値判断に拘束され、その時点で最適の解釈として採用されたとしても、その解釈の正当性が普遍的である筈がなく、時の経過や社会の変化によって変更される運命にあるものであって、絶対的基準によってその是非を定めることは不可能というべく、その意味において、解釈の実体的当否を第三者が決めることはできない性格のものと考えられる。

 それに反して、認識としての事実認定は、その前提としての複数の証拠からの選択という判断作用を伴うとしても、あるべき認定を想定すること及びそれからの乖離の程度をもって認定の当否を実体的に判断することが可能であり、評価作用の幅は限られているから、時間的・場所的制約を受けることなく普遍性があると考えられる。換言すれば、法令の解釈問題と異なって、比較的第三者の判断に相違が生ずるおそれは少ないと考えられる分野である。

 その意味において、事実誤認における違法の評価は、違法性限定説の憂慮する問題は起こりえないといえるであろう。

 しかし、だからといって、事実認定の前提問題である証拠の採否(信用性の有無)については、自由心証主義による裁量としての判断作用が介在し、その裁量の範囲でそれぞれの異なる証拠の採否及びそれに繋がる事実認定が行われ、結果である事実認定そのものに差異が生ずることは避けられず、従って、一審において甲と認定された事実が、二審においては乙と認定される場合があることは、経験別上明らかであり、これをもって違法となるものでないことは、前記結果違法説の不当として検証済みのところである。

  であるならば、違法か否かを判断する基準はどこに求めるべきかであるが、刑事裁判には、民事裁判と異なっ裁判を行うに当たっての行為規範とされる「疑わしきは罰せず」または「被告人は無罪の推定を受ける」旨の原則を遵守することが要請されているのであるから、これに著しく違反して行った証拠の採用及びこれに繋がる事実誤認は、上級審において取り消されるのみならず、国賠法上も違法性が認められると解するのが相当である。

 これに村して、被告国は、裁判というものの性質、不当な裁判の是正のための上訴制度及び再審制度の仕組み、裁判における事実認定や法令解釈の相対的性格等を理由として、刑事事件における裁判官の行為規範を国賠法の違法判断に持ち込むことは、裁判の違法に関する国賠訴訟の基本構造を正しく理解しないものであると非難するが、他方で「国賠法の違法に当たる裁判官の措置とは、その是正が上訴又は再審によるべきものとすることが不相当と解されるほど著しい客観的な行為規範への違反がある場合をいうと解すべきである。」旨述べていることから見ると、一応、著しい客観的な行為規範違反については、国賠法上の違法を認めていると理解できる。

 問題は、そこでいう「著しい客観的な行為規範への違反」とは、「その是正が上訴又は再審によるのでは不相当と解されるほど」の「著しさ」を基準としており、結局のところ、その違法性判断基準の実体は、違法性限定説のいう「不法な目的をもって」と同程度の違法に帰着するのであろうか。

 ところが、原告も容認しているとみられる「著しく経験則及び採証法則に違反した場合の事実誤認」または「著しく不合理な事実認定」と比較したとき、表現の上では、一見しただけでは、その差異を見出しがたく、従って、さらに、その「著しさ」の幅を具体的に吟味して、どの程度の「著しさ」をもって、違法というのが相当であるかの検証が必要であるというべきである。

 すなわち、被告主張の「著しさ」が違法性限定説に近いのに対して、原告主張のそれは「普通の裁判官なら合理的疑いを抱く程度の事実誤認」までをも包含しており、同じ「著しく」の表現を用いながらも、そこにはかなりの差異がみられ、これでは具体的事実の目安としてはなんら機能していないからである(つまり、同じ「著しく不合理な事実認定」という表現を用いたとしても、普通の裁判官なら到底考えられない、容易に想像できないような事実誤認をしたような場合に至って初めて「著しく不合理である」と評価するような場合--これを比喩的に数字で表現すると、約95パーセント以上の裁判官がそのような事実誤認はしないであろうという程度と言い表すことができる--と、普通の裁判官が合理的に考えれば、そのような事実誤認はしないのではないかと思われる場合も「著しく不合理である」と評価する場合--同じく数字で表現すると約60パーセント以上の裁判官がそのような事実誤認はしないであろうという程度と言い表すことができる--のように、かなりの幅がある。)。

 そこで、当裁判所が国賠訴訟の違法性の基準として、具体的にどの程度を「著しく不合理な事実認定」と評価すべきかを検討してみる。

 一般的には、普通の裁判官であれば、冒さないであろうと推定される程度を超えて行った行為、これを「著しい」行為と定義することについては、異論がないといえるであろうから、それを分かりやすく数値に置き換えるとすれば、二分の一を超えただけでは到底足りず、少なくとも四分の三を超える割合をもって、初めて「著しい」との基準に適合するものと解するのが相当であろう。

 つまり、普通の裁判官の少なくとも四分の三以上の裁判官がそのような事実誤認を冒さないであろうというような場合には「著しく不合理な事実認定」として、違法と評価してよいであろう。

 そして、それ以外の事実誤認については、自由心計主義の結果、結論が分かれたに過ざないと評価することができるのであって、その場合にも国賠法上達法であると評価することは、自由心証主義の否定に繋がり、裁判の独立を犯すことにもなろう。

 以上のように解することによって、裁判における事実認定の相対的性格等を理由とする違法性判断の困難さを考慮したとしても、違法性を特別事情のみに限定する論理的必然性はなくなったということができる。

 右に従って、具体的裁判行為に当て嵌めるとすると、普通の裁判官の少なくとも四分の三以上の裁判官が、合理的疑いをもって無罪の事実認定をしたであろう事実について、誤って有罪判決をした場合には、「著しく不合理な事実認定」として、国賠法上の違法があると認定される (もちろん、具体的に右四分の三をどのようにして検証するのか、また、四分の三の裁判官の事実認定を検証できるのか、という問題はあるが、右数字はあくまで比喩的な表硯で「著しく不合理な事実認定」という場合の「著しさ」を数値で表現したにすぎないのであり、右数字に厳密な意味があるものではない。)。    

(四) 訴訟指揮についての違法性

 ところで、原告は、本件一、二審判決の事実誤認のみならず、右一、二審における訴訟指揮についても、その違法性を主張するので検討するが、訴訟手続上、違法な訴訟指揮が行われ、それにより事実誤認もしくは法令解釈の誤りを冒した場合、事実誤認もしくは法令違反とともにその訴訟指揮の違法性が問われることがあるとしても、訴訟指揮が独立して単独に国賠法上の違法を問われる理由はなく、原告の主張する訴訟指揮の違法性は、結局のところ、主張する事実誤認の原因としての訴訟指揮の違法をいうにすぎないものというべきであって、独立して判断を要しないものというべきである。   

4 まとめ

 以上によれば、裁判官の職務行為の違法性判断基準は、上訴もしくは再審によって取り消された裁判について、普通の裁判官の少なくとも四分の三以上の裁判官が合理的に判断すれば、当時の証拠資料・情況の下では、到底そのような事実認定をしなかったであろうと考えられるほど、著しく行為規範、経験則、採証法則を逸脱した不合理な事実認定をした場合に国賠法上の違法があると解するのを相当とするものである。


作成責任者:町村泰貴
T&Vのホームページ