国賠地裁判決目次国賠控訴審第二次文書提出命令申立却下決定最高裁逆転無罪判決解説

 三 争点三1(本件一審判決の違法性)について

  

1 原告主張の本件一審判決における故意の違法性について

 ところで、原告は、本件一審の担当裁判官らが(本件二審も同様)、証拠上、原告を有罪とするには無理があるとの認識をもちながら、むしろ、無罪であるとの心証を有していたのに、あえて有罪判決を言渡したものであり、右事実認定は、いわゆる故意による不法行為に該当するから、従来の最高裁判決(昭57・3・12)が違法性の要件とする特別事情が本件一審判決にも存在する、と主張する。

 そこで検討するが、原告の主張する無罪の心証の基となるべき証拠とは、後述のとおり、本件無罪判決の指摘する合理的疑いの残る証拠関係をいうにとどまるものであって、結局は、右無罪判決の指摘の範囲を超えて、極端に拡大して主張する独自の見解に過ぎず、あえて最高裁の特別事情論に符合させるとともに、観念的には、故意が主観的違法要素であってそれの立証のためには、当該裁判官らの尋問が不可欠であるところから、その人証調べを従来から要求してきた原告の目的達成の手段として、構成したに過ぎないものと推定せざるを得ないものであり、かかる主張自体失当であることは明らかである(そもそも、前述のとおり、違法性の判断基準を行為規範基準説にとる以上、当該裁判官の人証調べを求める必然性は全くなく、それを求めることは、刑事裁判の不満を単に弾劾することを目的とするか、はたまた、裁判の違法を立証できる客観的証拠の乏しい事件を意味し、原告自身が国賠法上の違法が存在しないことを主張するに等しく、真摯に国賠訴訟を行う意図のないことを推定させるものである。)。   

2 本件刑事事件の特徴について

 まず、本件事故の大きな特徴としていえることは、本件事故の発生を直接目撃した者が記録上存在しないことであり、その結果、今日に至るまで、本件事故の真の加害者が誰であるかについては、本件刑事記録の精査及び本件国賠訴訟を通じても、未だに不明であることであり、本件刑事記録にある証拠関係においては、後述のとおり、客観的に誰が見ても、原告車両が加害車両ではあり得ないことを明らかに示す単独の証拠が存在しないこと(本件事故前の情況を推定させるバス運転手の供述と原告のバス擦れ違い供述を付き合わせてみて事故との関連を否定することはできる。)、従って、本件上告審と同様に「合理的疑い」をもって関連証拠資料の評価を行わない限り、捜査段階を通して加害車両と推定される何台かの事故時の通過車両の中では、原告車両が加害車両に近い位置にあると推定され得る情況にあった、すなわち、轢過車両と推定される何点かの情況証拠の中に置かれていたことは否めない事実であるといわねばならない。   

3 本件一審判決の事実認定について

 本件一審判決の有罪認定の理由構成は、左記のとおりであることが認められる(甲1、2)が、本件無罪判決の指摘するところによれば、それらはいずれも合理的疑いの残る事実認定であり、原告は、それらが国賠法上の違法に当たると主張するので、以下検討する。
(一)車故現場を通過した関係各車両の通過時間・擦れ違い地点等を中心とした検討結果から原告車両を轢過車両と考えざるをえないこと(以下「情況証拠に関する事実認定」という。)
(二)物証及びその鑑定結果により、前後輪付着物には、被害者と同じ0型の人の血絶と毛髪が含まれていたことが認められること(以下「物証及びその鑑定結果に関する事実認定」という。)
(三)原告の異常走行体験供述は信用できること(以下「原告の供述の信用性の問題」という。)
  

4 情況証拠に関する事実認定

  

(一) 本件一審判決は、先ず、物証及びその鑑定結果並びに原告の異常走行体験供述等の証拠を除いた、事故現場を通過した関係各車両の通過時間・擦れ違い地点等を中心としたいわゆる情況証拠のみをもって、原告車両が轢過車両であると認定していることが認められるが、その前提判断として、  

(1) 中川の擦れ違ったトラックが轢過車両であると判断して、そのトラックが原告車両である。  

(2) 本件検問の結果、検問通過車両の中に轢過車両があるとの前提で原告車両を割り出した。  

(3) バス運転手の供述及び事故前の被害者の行動を目撃した者の供述等と原告のバス擦れ違い地点に関する供述を比較検討したとき、その間に矛盾点があり、原告の供述に信用性がなく、原告のアリバイが成立しない。
等の検証を行っている(甲2)。   

(二) 右認定の問題点は、いずれも客観的な証拠に基づくものではなく、人の認識・判断を内容とする供述の総合比較に依拠しているものであって、合理的疑いを踏まえて吟味すれば、全てがその信用性を否定できる可能性を含んでいるものということができ、その中から信用性のある証拠に基づいて有罪の事実認定ができるか否か検証することになるが、その判断過程において信用性の存否を判断する基準は、ひとえに刑事裁判官に求められている「疑わしきは罰せず」の行為規範のみということができる。

 しかしながら他方において、刑事裁判官としては、安易に右の行為規範に寄り掛かって真の犯人を見逃してはならないとの命題も課されているわけであって、与えられている証拠関係の中から被告人と真犯人との結びつきを推定させるいくつかの証拠がある以上、それを否定する証拠との優劣(信用性もしくは評価の高低)を判断して採否を決断すべきであるが、その決断に当たり、前記二つの命題の狭間にあって、何方に重きを置いて採否を決するのが事件全体の見通しに合致するか、換言すれば、事件の大局的見地からバランスのよい結論といえるかが問われているのであって、大局的見地にウェイトを置き過ぎると、個々に内在する疑問(これがいわゆる合理的な疑いというべきか)のある証拠関係からその疑問を消去する手法(論理的推理に基づく矛盾の存在から信用性の否定へと発展させる)を用い、観念的に合理的疑いを消し去って大局的見地に見合った事実認定を行うことになるものと思われる。かかる手法が刑事裁判に持ち込まれてよいとは到底是認できるものではないが、従来の刑事裁判一般に、このような手法が行われてきたことも否定できないというべきである。

  (三) 本件においてそれを見るに、もともと、供述の正当性は、前述したとおり、他の客観的証拠との比較において証明される部分であるから、供述に重きを置いて事実認定すること、特に他の判断からの検証の余地を残さないほどに断定することには慎重であるべきであるが、本件一審判決は、この部分において、原告車両を轢過車両と認定するために、部分的に矛盾するところを切り捨てる手法を採用したところに問題があったということができる。

 それに反して、本件無罪判決は、個々の証拠関係に内在する矛盾を他の証拠で潰していくのではなく、逆にその矛盾に合理的疑いを残しながら、その合理的疑いの範囲を全体にまで広げ、その結果、破棄自判するに至ったものであることが窺われる。   

(四) したがって、本件無罪判決が指摘するように、本件一審判決は、中川供述を信用して、中川が最後に擦れ違った車両について、対向車両は宮川魚屋付近で擦れ違った一台だけであり、他になかったと認定しているが、自動車運転者が片側一事線道路で対向車と擦れ違う場合、擦れ違いの際の接触の危機を回避するべく対向車の通過を待って一時停車をしたなどという特別の車情を除いて、対向車の台数、車両の形体等について意識していないのが通常であり、倣に意識していたとしても記憶に残ることはほとんどないというのが常識であって、このような対向車に対する認識のあいまいさを考慮すれば、少なくとも、別のトラックの存在する可能性を払拭することはできない、換言すれば、合理的疑いが残る部分であるというべきである。  

しかし、この点について、本件一審判決は、中川供述を子細に検討し、
 (1) 現場より約2キロメートル会津若松市よりにある平堀の元ボーリング場付近でバスに追い越されたこと、現場より約450メートル会津若松市寄りにある宮川魚屋付近でトラックと擦れ逢った後は本件事故現場に至るまで擦れ違い車両はなかったことを一貫して供述していること(中川の員面調書・乙177、中川の証人尋問調書・乙221「不審車両の聞き込みについて」と題する報告書・乙191)
 (2) 当日は父の命日であったのでその日の事はよく党えている旨供述し、実際に追い越していったバスには乗客がいなかったことまでよく覚えていること(乙177、221、斉藤操の員面調書・乙194参照)
 (3) 午後9時過ぎという時間帯であり付近の場所及び交通情況等からしてそれほど車の行き来はなかったであろうと思われること
を理由に、中川の擦れ違い車両についての供述を信用できるとし、擦れ違い車両は宮川魚屋付近で擦れ違ったトラック一台であると認定している(甲2)。

 以上の判断手法が、前述するとおり、刑事裁判官の行為規範である「疑わしきは罰せず」に照らして問題があるというべきであるが、加害車両として原告車両の他に通過車両を想定することが困難な当時の証拠資料及び情況のもとでは、経験則上、普通の裁判官の事実認定として同様の手法が採用される可能性を否定できず、前記行為規範に「著しく違反した」と評価することはできない。   

(五) ところで、原告は、本件一審判決が、中川の目撃したトラックが原告車両であると認定するためには、中川の検面調書(乙197)を刑事訴訟法321条1項2号後段により採用しなければならないところ、右検面調書には特信性がないことが明らかであるのにそれを採用したことは違法であると主張する。

 たしかに、中川の第7回公判での供述を素直にみてみると、擦れ違ったトラックの形状については検察官の例示を用いた質問に答える形ではあるが、コンテナか冷凍車のような感じのものと供述していると認めることができる(乙221)一方で、逆に、その公判供述の約2か月前に検察官に対し、「トラックは幌付きかどうかは分からないが、その幅から考えて四トンクラスの大きさのもので、少なくとも冷凍事のようなものではなかった。冷凍車なら角張って銀色に見えたりすると思うが、そういうトラックではなかった。」と供述していること(乙197)から、検面調書と公判供述の相反性が問題となり、どちらの供述が相対的に特信性があるかが問題となる。

 本件一審判決が右検面調書に特信性を認めた理由は、
 (1) 第14回公判において、当時の記憶に基づいて検面調書に署名押印したと供述していること、また、警察での証言(員面調書と「不審車両の聞き込みについて」と題する報告書)が正しい旨供述していること(乙177、191、236)
 (2) 擦れ違い車両の形状について、コンテナか冷凍車のような感じのものと供述したのは第7回公判においてだけであるうえ、右供述も検察官が質問で例示としてあげたトラックの形態をただ追認しているだけのようでもあり、中川が自ら積極的に冷凍車またはコンテナ車であると述べてはいないなどその供述自体にいささか不明碓な点があると考えることができること(乙221)
 (3) 事故直後から一貫して四トン程度のトラックと擦れ違ったことを述べていること(乙177、191)
 (4) 事故目撃後まもない昭和50年12月25目に作成された前記員面調書(乙177〉によれば、中川はトラックがクランクを曲がってくるところを目撃しているのであるから、トラックの形状は容易に認識できたであろうと思われるにもかかわらず、比較的特徴をつかみやすいと思われる冷凍車の類を指示していないこと
 (5) 第7回公判では、員面調音と異なる供述との食い違いを弁護人から指摘され、調書の内容が正しいと訂正したり、事故現場での被害者の位置や姿勢についても、現場の客観的状況と異なる供述をするなど、同人が初めて法廷で証言することでいささか冷静さを失い自己の記憶を正しく再現しえなかった傾向が親われること(乙177、221)
等であるが、右は特信性の存否を判断する前提判断に関するものであるから、独立した事実誤認の問題ではなく、これをもって、著しく経験則・採証法則を逸脱した不合理なものと評価することはできない。   

(六) また、原告は、中川の員面調書が他にも存在し、その中で擦れ違い車両が冷凍車であるとの記述がされている筈であり、本件一審裁判所は、それを公判に提出させないで中川の検面調書を採用したと非難するが、この点については、本件一審裁判所が第23回公判で検察官に各書証の存在の有無の調査を勧告し、検察官が次の公判及び56・10・27付意見書で提出済の員面調書以外には存在しない旨回答していることの他に中川の各調書及び法廷での供述からも他に員面調音が作成されていることを窺わせる事実は認められず、原告の右主張は理由がない(乙41、43、177、197、112、236)。    

(七) 検問通過車両関係証拠について  

(1) 本件一審判決の判断

 本件一審判決は、佐藤芳賢の証言等により、西会津派出所前で約5分ほど停車して検問を受けてから発進した原告車両と入れ違いに佐藤芳賢運転のトラックが右検問場所にさしかかったこと、佐藤芳腎は、事故直後に新渇市方面から本件事故現場にさしかかり、そこで、他の車両とともに事故処理を待ったあと先頭となって会津若松方面に向かって発進し、検問場所まで他の車両を追い越すことも、逆に他の車両に追い越されることもなく走行したこと、国道49号線の事故現場から、検問に至るまでの間には、トラックが通り抜けられるようなめぼしい枝道は存在しないなどの事実が認められ、これらの検問関係の証拠等によっても、原告車両が轢過車両であることを否定できないとして、この点からも犯人性を特定していることが認められる(甲2)。  

(2) 本件無罪判決の指摘

 ところが、本件上告審は、本件一審判決の右事実認定について、国道49号線の事故現場から本件検問場所迄の約26キロメートルの区間を走行する車両の順序は国道上での追い越しや追い越されがない限り変わらず、事故現場を会津若松市方面に向かって通過した車両は必ず検問場所に行き着く筈であることを前提にしていることが明らかであるところ、関係証拠によると右約26キロメートルの区間には少なくとも四本の県道レベルの脇道があるほか、その他の小さな脇道や駄車スペースも多数あることが現われ、轢過車両はたとえ脇道から遠方へ通り抜けてしまうことが困難であったとしても、脇道等を利用して後続車との走行順序を変えることは容易であり、また、ユーターンして新潟市方面に戻ることも不可能ではないから一審判決の前提そのものが成り立たないのではないのではないかと指摘する(甲1)。  

(3) そこで、この点について検討するに、
 [1] 原告も事故現場から検問場所までは追い抜いたり追い越されたりした ことはない旨供述していること(乙266)
 [2] 佐藤芳賢が、国道49号線は交通量は余り多くなかった、事故現場から検問場所まで追い越しも追い越されもなかった、検問場所についたときに丁度原告車両(と思われるトラック)が発進して行った、事故現場から検問に至るまでに対向車はなかった、国道49号線には枝道があるが、枝道から入ってくる車も含めて同一方向に向かう車はなかった、途中から入ってくる事を追い越すことがなかった旨供述していること(乙269)
 [3] 50・1・27付捜査報告書によれば、事故現場から本件検問場所迄は4本の県道が枝分かれしているが、それぞれ、途中までしか開通していなかったり、行き止まりになっていたり、山道でほとんど交通量がなく冬は通れなくなっていたり、道路状況が悪くほとんど車が通らない道であるとの報告がなされていること(乙201)
等の事情を総合勘案すると、原告車両の他に轢過車両があるのではないかという可能性を検証しなかったとしても、本件一審判決の当該認定・判断が著しく経験則・採証法則を逸脱した不合理な事実認定であると認めることはできない。  

(4) 佐藤賢一供述の伝聞証拠性について

 ところで、原告は、警察官証人佐藤賢一の証言の採用について、この証人は本件事故当時は全く捜査に関与せず、赤松検察官に命じられて昭和56年暮れから本件補充捜査に従事したものであるところから、弁護人は、伝聞証拠を理由にその採用に反対したにもかかわらず、本件一審裁判所は同人を採用し、検問通過車両の通過時刻と通過順序を認定し、轢過車両は原告車両以外にないと断じたことは、法が証拠として許容しない伝聞証拠を用いた違法な有罪認定であると主張する。

 しかし、右佐藤が本件検問を直接担当した警察官ではないものの、公判段階になって、補充捜査の一環として本件検問表に基づき、新渇陸運事務所において車体型式などの車両の種類を調べ、「死亡轢き逃げ事件捜査に関する車両調査について」と題する報告書を作成しており、その関係から右報告書の作成経緯及びその過程で自ら知りえた事項を証言したものであって、その証言内容が伝聞供述にはあたらないとする考え方が、必ずしも成り立たないものではなく、右伝聞証拠に関する法律解釈が著しく誤ったものであるとまで解することはできない。    

(八) アリバイについて

 (1) 本件一審判決が原告のアリバイの成立を否定した事実認定について、本件無罪判決は、原告の供述の信用性について左記の各点を指摘し、その点を考慮すれば、原告とバスの擦れ違い地点に関する供述の信用性は、結局は、右後輪付着物、異常走行体験供述の評価を抜きにしては判断しえないとしている(甲一)。
[1] 原告の当該供述は、かなりの根拠を伴っており、少なくとも原告以外の者の同種供述よりもその根拠が薄弱であるとはいえない。
[2] 事故現場から新潟交通津川営業所までの間に「阿賀の川タクシー」の看板と見誤るようなものが存在していたという証拠はない。
[3] 原告は、当該供述をする前にバスの運転手がどのような供述をするかは知る由もなかったのであるから擦れ違い地点についての供述に作為が入り込む余地はない。
[4] そこで、本件一審判決が原告のバス擦れ違い供述の信用性を否定した理由について、以下検討する。

 第一に、バス運転手の供述との比較において「被告人は、一貫して路上に被害者の姿を目撃していないというが、これに村し、その直後に対向して現場にさしかかった定期バスの運転手は被害者が路上に横臥しているのを目撃している。・・・・現場から阿賀の川タクシーの看板までは220メートルしかないのであるから被告人が現場通過後、約23・4ないし31・2秒でバスが到達することになるはずであるが、被告人は被害者を目撃していないというので供述に疑問が生じる。」旨判示しており、原告の供述どおりだとすれば、当然に事故に遇う前の被害者の姿を目撃するはずであるとの疑問を抱いていることが認められ(甲2)、この点には一応の合理性があり、特段不合理なことではないと解される。

 第二に、本件一審判決は左記のとおり、二つの仮説をたてて検討のうえ、原告のアリバイを否定している(甲2)。
[1] 原告が事故現場を通過後、バスが到達するまでの間に被害者が路上に進出し、転倒した可能性について被害者は「あたらしや」の前辺りで道路中央線方向に進出し、事故現場まで少なくみても約20メートル以上をぶらぶらとよろけながら、酩酊、歩行して、その場に転倒、横臥したことになるが、被害者の酩酊の程度からして、23・4ないし31・2秒の間に右一連の行為をとることは経験則上到底考えられない。
[2] 原告の見落とし すでに被害者が事故現場に横臥していたとすると、そこを通るためには、左に大きく避けなければならないのであるから、現場の状況から考えれば見落としは考えられない。

 右の点に関して、原告は、そもそも被害者の事故前後の行動が明確ではなく、本件一審判決の認定した被害者の車故前の行動自体が前提を欠くものではないかと主張するが、本件一審判決は、目撃者波多野の供述、バス運転手の目撃情況、及び被害者の酩酊度等を総合して詳細に検討した結果、被害者は「あたらしや」の前あたりで道路中央線方向に進出し、津川農協前の事故現場まで少なく見ても約20メートル以上にわたる距離をぶらぶらとよろけながら酩酊、歩行して、その場に転倒、横臥したと認定・判示しており(甲2)、この事実認定が原告のアリバイを否定するためのものとしては仮説を含んだもので、依然、疑問が残るといわざるをえないが、著しく経験則・採証法則に反するものと解することは相当ではない。

 なお、茂野録良の鑑定書(乙162)及び同人の検面調書(乙163)によれば、被害者のアルコール濃度は、血中0・362%、尿中0・420%であり、通常の人であれば、かなりの酩酊状態にあり、歩行困難、意識不明瞭、思考力減退の状況にあるとされており、また、50・12・24付報告書(乙192)及び波多野の供述(乙238)によれば、被害者が泥酔状態であったことが認められ、そのような泥酔状態で23・4ないし31・2秒の間に約20メートル以上にわたる距離を歩行のうえ、その場に横臥するという一連の行動をとるということは、経験則上考えられない、と認定・判断したことはあり得ることというべきである。

 また、右の点に加えて、本件無罪判決の前記指摘と異なって、実況見分調書添付の写真等(乙159、160、170)をみると、事故現場付近には「阿賀の川タクシー」の看板と同じような大きさ、形の看板が数多く設置されていることが窺われ、原告が「阿賀の川タクシー」の看板の存在を特に意識して走行していたことに疑問を呈した本件一審判決の判断にも首肯すべき部分もあり、「阿賀の川タクシー」の看板付近で擦れ違ったという原告の供述の信用性を否定したことが著しく経験則・採証法則に反しているとは認められない。

 さらに、原告は、原告車両とバスとの擦れ違い地点の問題について、本件一審公判において検察官、弁護人間で争いの無い事実であったのであり、検察官、弁護人間に争いのない事実と違う事実認定をするには、被告人に防御を尽くさせるために争点を顕在化させるべきであり、これを怠って、不意打ち認定をした本件一審判決には、違法があると主張するが、検察官が擦れ違い地点に関する原告の供述の信用性について特に異を唱えなかったからといって、そこに民事裁判における自白のような擦れ違い地点の認定を固定する効果が生ずるものではなく、裁判所としては、原告の右供述の存在にかかわらず、その供述の信用性や他の証拠との関係で裁判所の自由心証において、自ら擦れ違い地点を認定できるのであり、結局は、原告の前記供述の信用性の問題に帰するのであるから、裁判所としては、民事裁判における要件事実に関して争いがある場合のように必ずそのことについて当事者の攻撃防御を尽くさせたうえで判断を示さなければならないというわけではなく、刑事裁判における事前の訴因の変更の問題でもなく、自由心証の範囲内において判断できると解釈したとしても、特段、国賠法上違法となるものではない。   

5 物証及びその鑑定結果に関する事実認定

 前記認定のとおり、本件一審判決の理由構造によると、前記4のいわゆる情況証拠関係から、原告車両が轢過車両であると認定できるとしながら、更に、原告車両に残された物証及びその鑑定結果からも原告車両が轢過車両であると認定していることが認められるが、それを更に分析すると、右情況証拠に基づく有罪の事実認定は、右に検討したとおり、関係人の供述の食い違いを検証した上での認定であって、仮にその視点を変えると、別の事実認定の可能性も否定できないところであり、その意味においては、更に揺るぎない物証関係に基づく補強の事実認定が必要であることはいうまでもなく、それを踏まえて、本件一審判決が情況証拠関係に基づく事実認定に引き続いて物証関係による有罪認定の理由構成を行ったものと認めることができる(甲2)。

 ところで、原告車両に残された物証つまり右後輪付着物が本件被害者に由来するものであるとすれば、それは、いわゆる直接証拠であるため、たとえ他の証拠関係に欠陥があったとしても、原告車両を加害車両と認定することに特段問題がないと思われる反面、右後輪付着物が本件事故と関連性を有しないとの結論に至った場合、原告車両が轢過車両でないと断定できるかは問題である。

 すなわち、本件一審判決の理由構造のごとく、前後輪付着物と被害者との関連性が遮断されたとしても、前記4のように情況証拠のみから原告車両を轢過車両と認定する方法(その是非は別として)も存在し、原告が本件一審の公判段階から主張するように、右後輪付着物と被害者との関連性の否定により、直ちに、原告車両が轢過車両ではないと結論できるものではない。

 しかしながら、その蓋然性は高く、情況証拠関係に基づく事実認定に合理的疑いが大きく残ることは必然であり、これを看過すれば、国賠法上の違法となるといえよう。

 以下その点について検討する。    

(一) 本件検問時の右後輪付着物の見落としについて

 本件無罪判決が指摘するように、右後輪付着物の大きさ(約19センチメートル×20センチメートル)からみて、夜間とはいえ、検問警察官がこれを見落とすことがあり得るであろうかとの疑問が生ずることは否めない。

 しかしながら、その他方で、右無罪判決が「検問時においては右後輪付着物は存在しなかったという可能性を全く否定し去ることはできない。」とまで、指摘できるかについては疑問がないわけではない。

 すなわち、
 [1] 事故に近接する原告の50・12・24員面調書(乙184)、佐藤賢一の証言、(乙267)等によると、原告の検閲時間が約5分程度であった可能性があること(原告は公判段階で検問時間が10分程度と供述を変えているが、免許証の点検は2、3分で済むし、10分の長さは他の証拠との間に齟齬が生じ(乙199、267、269)、特に10分かかったという根拠は認められない(乙38、242、266)。)
 [2] 検問警察官が、本件検問当時に事故態様を正確に把握していなかった(乙159、184、269)結果、走行中の車両が歩行者を轢過した死亡事故の場合の多くは、歩行者に車両の前部を衝突させるという事故態様であり、本件においても、検問警察官が主に原告車両の前面を中心に見分してその痕跡の発見に努めたが、その痕跡が見つからなかったため、右後輪付着物の付着部分である後部車輪部分の見分を疎かにした可能性があること
の各事実から判断すると、本件無罪判決が疑問を抱くほど本件一審判決の認定・判断が不合理であるとはいえない。
   

(二) 防火ライトでの右後輪付着物等の発見について

 本件一審判決が、右後輪付着物がどこで発見されたかについてはなんら理由説示していないことが認められる(甲2)。

 従って、この点については、本件一審の公判段階において、検察側と弁護側で大いに争ったところであるから、本件一審判決がなんら理由を付すことなく、右後輪付着物と本件事故との関連性を認めたことは不自然であるといわざるを得ず、仮に、本件無罪判決の指摘するように「防火ライトで右後輪付着物が発見されたという原判決(本件二審判決)の認定には疑問の余地がある。」だけでなく、原告主張のように、捜査関係者が故意に右後輪付着物を岩沼署で付着させた可能性があり、証拠上その認定ができるにもかかわらずそれを怠ったというならば、本件一審判決が理由を付さずに右後輪付着物と本件事故との関連性を認めたことは著しく不合理な事実認定であるとして、国賠法上の違法を認めてしかるべきである。

 しかしながら、発見場所がどこであったかが不明であることと誰が付着させたかが不明であることとでは、大いに事実の認定に違いがあることは明らかであり、少なくとも、本件刑事記録を精査しても、捜査関係者が付着させたことの可能性を窺わせる証拠はなく、原告主張は単なる推論の域をでないのであるから、刑事判決においては必ずしも被告人の主張すべてについて理由を説示する必要がないことに鑑みると(刑事訴訟法44条、335条参照)、原告が主張する右後輪付着物の発見場所についての判断を欠落させたことが、刑事公判において争点となっているからといって、そのことが特段国賠法上違法の評価を受ける程の瑕疵でないことは明らかである。  なお、原告の主張によれば、右後輪付着物は捜査閲係者が故意に付着させた可能性があるとも解されるので、付言するが、後述のとおり、右後輪付着物に被害者の血液が含まれていたか否かについては鑑定まで行われており、その結果、一つの鑑定では否定されたものの、別の鑑定において、非常に希釈された人血とされる物体が辛うじて発見されたというのであるから、そこまでしなければ、人の血と言えないものを故意に付着させることが必要であったとは到底考えられないのであって(故意に付着させるのであれば、もっとストレートにO型の人血を付着させたであろう。)、ここまで原告がこの点を疑問視すべき理由が不可解であるとともに、本件無罪判決が右後輪付着物は人血の証明がないという鑑定を採用しながら、同様な疑問を投げかけている点も理解できないところではある。    

(三) 轢過態様及び血痕付着機序について(江守鑑定・上山鑑定について)

(1) 轢過態様について、本件無罪判決は「上山鑑定には(井上鑑定ほどの)重大な疑問点はないと思われるのに、本件一審判決がその轢過態様の認定において、特に説明を付すことなく、右鑑定に示されている専門的知見を無視している点で疑問があるといわざるを得ない。」とし(甲1)、原告もこの点についての本件一審判決の判断は違法であると主張している。

 たしかに、上山鑑定の「頭部は前輪、後輪によって二度轢過されている」旨の部分は、被害者の頭部とその他に上胸部にも骨折を伴う損傷がある旨の所見に合致し、布前輪で頭部を轢過し、右後輪で頭部から上胸部を轢過したと解することもでき、その結果、右後輪ダブルタイヤの外側タイヤの外側面に右後輪付着物が付着することはあり得ないのではないかとの結論に至る可能性がある。

 そこで以下、具体的に検討する。

 上山鑑定は、被害者が伏臥状態のところを轢過されたと鑑定しているが、江守鑑定等(乙187、252)によれば、被害者は仰向けで轢過された旨並びに井上鑑定等(乙190、258)も、仰臥状態での轢過と各鑑定していることが認められ、更に、江守教授は「頭皮が剥がれているのも、タイヤが直接上を轢過したのが原因だと思う」旨供述していること(乙252)、井上教授もほぼ同様のことを供述し、「・・・これは大きな上山さんの間違いです。」、「どうして上山さんがそういうことを言われたか、私には不思議だなと思うだけです。恐らくいろんな経験が足りないんじやないかと思うんですが。」とまで供述し、頸部の痕跡や、大脳の壊れ具合などを説明して法医学的な観点から上山鑑定をかなり強い論調で批判していることが認められる(乙258)。

 (2) さらに、本件無罪判決は、本件一審判決が江守鑑定を右後輪のみによる轢過を前提としていること及び分析手法が機械工学的に偏りすぎていることを理由に本件に適切でないとして採用しなかったことについて、江守鑑定は全体として極めて明快であって、右後輪の轢過以前に前輪による轢過があるか否かで結論に影響がないことは鑑定書自体から明らかであること及び鑑定手法が機械工学的なものになっているのも鑑定事項の性質上当然であるとして、本件一審判決を非難し(甲1)、原告も同様に主張している。

 そこで、検討するに、
 [1] 上山鑑定によると「江守鑑定及び証言の大筋については同意すべき点が多い。しかし、鑑定の前提として、『右後輪のみの轢過』を条件としたことには問題がのこる」とされ、さらに「鑑定の前提を前輪及び後輪による轢過としていたら、結論も変わっていたものと思われる」としていること、また、他の事例の紹介としてトラックの後輪のみ轢過の場合でもダブルタイヤの外輪の外側面に血痕の付着が認められた事例も紹介し、結論的には、本件においても人体轢過時に血痕として付着することも可能であるとしていること(乙189)
 [2] 江守教授自身も証言において「あくまでそれは右後輪の話である」旨供述していること(乙252)
 [3] また、井上教授は、人体というものは人工的なものではなく、骨、皮膚、細胞、筋肉、神経などが複雑に絡みあっており、人工的な物体と同じに考えてはいけない、また、すでに骨折している人間の上を轢過すれば、皮膚の下の骨が、轢過されたところをシーソーのようにして持ち上がることもあるとして、江守鑑定のような物理学的な判断を批判しているし、右後輪付着物の付着は可能であって、否定できないと鑑定及び供述していること(乙190、258)
等の鑑定意見がそれぞれ存在することが認められ、江守鑑定の前提が、後輪轢過のみであるから、後輪轢過の以前に出血があったり、骨折を伴っている場合には、結論が異なるであろうと本件一審判決が判断したとしてもあながち不合理とは思われないし、江守鑑定が例にあげるバースト時の血痕の飛散情況についても、轢過される人間の体、特に顔面のようなところは、口、鼻などの存在、骨折した骨の具合等と轢過するタイヤの接触面の態様によっては、血痕の飛散情況も様々な状態で飛散するのではないかと考えられることを総合すると、上山鑑定及び江守鑑定に対する本件一審判決の処遇に著しい不合理性を見出すことはできず、この部分の本件無罪判決の疑問も原告が主張するほどの不合理なものということはできない。

 (3) さらに、本件無罪判決は、「一、二審判決は、そのかなり技巧的な轢過態様の認定にもかかわらず、被害者の血液が被告人車の右後輪タイヤの踏面に付着せず外側面にのみ付着したということをよく説明しえているとは思えない。」と疑問を呈している(甲1)。

 しかしながら、当該疑問の前提は、原告車両の右後輪外側タイヤの踏面に被害者の血液が付着していないことを問題にするのではなく、右後論付着物を被害者の血液であるとすれば、タイヤの踏面にも付着したはずであるというところにあると解され、原告が轢過態様を右後輪外側タイヤが被害者の上胸部を轢過したものとする前提条件とは異なるものであることに留意すべきである。

 確かに、本件一審判決の理由中には、タイヤの踏面に血液が付着していないにもかかわらず、被害者の血液を含むと認定した右後輪付着物がタイヤの外側面にどうして付着したかの検討をした形跡のないことは明らかであり、疑問である(甲2)。

 なお、原告の疑問とするところについて検討するに、
 [1] 現場路上に残された痕跡と、被害者の発見位置からすれば、被害者は前輪で轢過された後、後輪で轢過されるまでの間に会津若松市方向に約1・4メートル、センターライン方向に20ないし30センチメートル移動したと考えても不合理でないところ、原告車両が前輪と後輪がほぼ同位置を進行するとすれば、本件一審判決の認定した轢過部位が説得的であること(乙159、160、196)
 [2] 原告車両の右後輪外側タイヤが前輪と比較して約3センチ程外側にあるにすぎないから(乙198)、原告主張並びに江守鑑定及び上山鑑定を前提にすれば、前輪が轢過してから後輪が轢過するまでの短い間に(約0・5秒)急激に約50ないし60センチ進路が右に移動しないと説明がつかないと思われること
 [3] 交通事故においてはその事故態様の解明は極めて困難であり、予想もつかない事態が起こりうることは各鑑定人も認めていること(乙252、298)
 [4] 実際に、各鑑定人の轢過態様についての意見が様々であること(乙187、189、190)
等の事実が認められ、本件一審判決の理由からも、轢過態様の確定と右後輪付着物の付着機序の認定については、相当の困難性が伴ったことが窺われ、前記4における判断経過から明らかなとおり、刑事裁判官の命題である前記二つのうち、後者の「真犯人を見逃してはならない」の命題に重きを置いた結果が、本件無罪判決において事実誤認と判断されたものと考えられる。
  

(四) 血痕鑑定について

 (1) 本件無罪判決が本件一審判決の血痕鑑定に対する判断について、疑問を呈しているところは、左記のとおりである(甲1)。
(船尾鑑定について)
 [1]  検体の陳旧度に対する配慮及び検体からの浸出液の濁りについて、船尾教授は明快に説明していること
 [2]  船尾鑑定が採用した輪環反応法の人血否定の結論を信用しないこと
 [3]  詳細なデータの保存・提出のない富谷技術吏員の検査をもって船尾鑑定を疑問視したこと
 [4]  血痕予備試験の陰性結果を無視したこと
(桂鑑定について)
  鑑定書添付の論文の実験データと異なる長時間を要した鑑定結果には疑問があること
             

 (2) 本件一審判決が、船尾鑑定と桂鑑定の信頼性について、検討しているところは左記のとおりである(甲2)。
(船尾鑑定について)
 [1] 検体の由来を知らないことによる検体の陳旧度への配慮を欠き、浸出液の濁りに対する誤解が窺えること
 [2] 同じ検体についてなされた検査で、輪環反応法で否定されたものがフィブリン平板法では人血の反応があったこと
 [3] 船尾鑑定の検体と桂鑑定の検体は異なること
 [4] 輪環反応法は顕微沈降反応法より鋭敏度で劣ること
(桂鑑定について)
 [1]  顕微沈降反応法は昭和37年秋に開発され、鋭敏度が高く徹量血痕に効果的で鑑定方法としての科学性に問題がないこと
 [2] その道の第一人者である鑑定人柱秀策が、周到、綿密な検査法を駆使した鑑定結果には信頼性があること
             

(3) 本件刑事記録を精査したところによると、船尾鑑定と桂鑑定については、次の事実を認めることができる。
(船尾鑑定について)
 [1] ベンチジンテストで陽性の結果が、フェノールフタレインテストで陰性の結果が出た場合、いずれも血痕である可能性があるので、さらに人血試験に進む必要があると船尾教授が証言していること(船尾証言・乙249)
 [2] 古くなった血痕は一般に血色素の溶解性が低下して検査ができないことがあること(桂証言・乙255、船尾証言・乙261)
 [3] 浸出液の濁り具合からみて、鑑定に必要な血色素(1万5千倍まで検査が可能)が浸出していなかった可能性があること(乙255)
 [4] 検体にゴミや夾雑物が混合していた可能性があり、それの除去作業をしていないこと(乙261)
 [5]  船尾教授は、検体を横山がタイヤから採収したことを知らず、その由来を知らない可能性があること(乙261)
(桂鑑定について)
 [1]  顕微沈降反応法が技術的に確立した手法であることを船尾教授も認めていること(乙261)
 [2] 抗原抗体反応の出硯と血痕の存在は因果関係が認められること(乙188、255)
             

 (4) 以上を検証すると、本件一審判決は、顕微沈降反応法の鋭敏度について輪環反応法より1万倍優れていると評価して桂鑑定を採用したことが著しく不合理であると解することはできない。   

6 異常走行体験供述について

 

(一) 本件無罪判決の異常走行体験供述についての判断

 本件無罪判決は、「仮に被告人車が轢過車両であるとすれば、右前輪及び右後輪がともに被害者の頭部等に乗り上げる形で轢過したと認めざるをえないことは、関係証拠上明らかであって、一、二審判決とも轢過態様をそのように認定しているところである。被告人が当時居眠り運転をしていたのでない限り、被害者を轢過したのであれば、相当強力な衝撃を二度にわたって感じたはずであり、特に前輪は運転席のほぼ真下にあって、右前輪による轢過の衝撃は強く感じられたはずであるから、被告人の異常走行体験供述は、他の客観的証拠から認められる轢過態様と矛盾するというほかない。被告人車の右後輪付着物は取調官及び被告人の双方に強烈な印象を残したものと思われるから、被告人の異常走行体験供述は、取調官の誘導と被告人の想像による産物ではないかという疑いを否定できないであろう。」として、原告の異常走行体験供述の任意性・信用性に疑問を投げかけている(甲1)。   

(二) 本件一審判決の異常走行体験供述についての判断

 本件一審判決が原告の異常走行体験供述について任意性・信用性があると判断した理論は、次のとおりである(甲2)。

 (1) 事故から4日後の同月24日の実況見分の際、事故現場に事故の痕跡が残っていないにもかかわらず、自動車の中から、異常走行の現場を指示し、それが実際の事故現場と近接していたこと

 (2) 原告は、記憶のないことについては、一貫してその旨を述べていることから、取調官の強制や誘導による心理的強制を受けた可能性がなかったこと   

(三)

 本件刑事記録を精査すると、原告は、本件検問を通過したのち、自宅に帰った後から原告車両を岩沼署に提出するまでの間、本件事故のことについては全く意識の外に置いていたことが認められるが、そうであるとすると、かなり強烈な印象で異常走行体験を供述していることと大きな希離があると解される。

 けだし、原告が全くの任意で自発的に述べたものであれば、本件検問を受けた般階で、異常走行体験と本件事故との関連性に当然気づくはずであり、帰宅後、原告車両を点検するか、上司に相談ぐらいはするのが自然であるのに、これらの処置をしていないということは、取り調べにおいて取調官から何らかの示唆を受けて初めて異常走行を意識したのではないかと理解するのが自然である。そのような疑問を本件一審裁判所が抱けば、異常走行体験供述の内容についても、本件無罪判決の指摘するように、前輪轢過のショックについては供述していないのではないかとの疑問が生じ、起訴状の轢過態様が後輪轢過に限られていることとの関連に帰着した可能性があるところである。    

(四)

 しかしながら、他方において、異常走行体験供述の内容が後輪轢過に限定した明確な表現となっているわけではなく、時速約40キロメートルの走行では、前、後輪で轢過する時間が僅か0・5秒足らずであり(乙258参照)、その一瞬のうちに起こった一連の衝撃を表現したものと解し得なくもなく、なによりも、原告が本宅で収り調べを受けていたことにより、取調官の強制・誘導の余地が考えにくい環境にあったこと及び右供述の変遷の経緯にあいまいな部分があってかえってその部分の信用性に疑問がもたれ、それが障害となって、前記疑問に至らなかった可能性もあり得るところである(乙183、184、195、230、241、242、243、266)。   

7 まとめ

   

(一) 本件一審判決は、前述したように、
 [1] 物証及びその鑑定結果並びに原告の異常走行体験供述等を除いた事故現場を通過した関係各車両の通過時間・擦れ違い地点等のいわゆる情況証拠のみに基づいて、原告車両を轢過車両であると認定しているが、それのみにとどまらず、右認定を補強する手法として、
 [2] 物証及びその鑑定の結果からも原告車両を轢過車両と認定できると判示したうえ、更に、
 [3] 原告の異常走行体験供述からも、原告と本件事故との関連性が認められる、
と判示している。
   

(二) 右[1]の情況証拠から犯人性を特定する方法は、ほとんどが人証によっていること、また、アリバイ排斥についても精緻な理論を展開しているものの、時速設定の数値に合理的な根拠と一貫性を欠いている(中川車両、原告車両、バス等の時速を一定させていない。)という疑問もあり、有罪の認定に障害となる証拠(無罪性を推定させる証拠)の信用性を否定する手続として、先に形成した心証に齟齬する証拠の信用性を別の証拠と矛盾するからという理由により、あるいは、その証拠に内在する論理的矛盾を理由として切り捨てる手法を用い、真犯人特定のためのより客観的な証拠からのアプローチや、各証拠に隠れている合理的疑いへの糸口を見出さないまま事実誤認に至ったものである。

 また、[1]の情況証拠から犯人性を特定するという方法は、逆説的には、関係者の供述等から轢過車両になりうる可能性のある車両は、原告車両以外には存在しないという証明、つまり「不存在の証明」にも繋がるものであるが、本件事故現場は、記録上明らかなように、国道上という開かれた空間であるから、本件車故の目撃供述等の直接証拠がない限り、本件無罪判決が指摘したように、原告車両の他に轢過車両となりうる可能性のある車両の存在を否定することは容易ではなく、換言すれば、密室あるいはそれに限りなく近い状態でない阻り、「不存在の証明」は困難であるといわざるを得ないのであって、その意味において、本件一審判決が情況証拠から原告車両を轢過車両であると認定した理論構造は、例えれば、入り易い入口(原告車両が加害車両である可能性が高い。)から入って迷路(複数の異なる鑑定結果)を選択したに等しいということができる。

 その点からすれば、本件上告審の判断手法はまさにそのような観点から事実を認定しており、理想的なあるべき刑事裁判の姿を示しているともいえよう。    

(三) しかしながら、前述したところから明らかなとおり、本件一審の終結した段階においては、原告を有罪と認定できる多数の証拠と逆に有罪と認定するには障害となる証拠、すなわち、合理的な疑いを抱かせる証拠も存在することは疑いのないところである。

 そのような情況で、本件上告審が指摘するようなスタンスで審理に臨むことが刑事裁判の理想であることはいうまでもないが、他方、実際の実務の現状においては、どちらかといえば、「真犯人を見逃してはならない」との命題に近い立場から「情況証拠ないしは間接事実の場合は、その一つの証拠なり事実だけで犯罪事実を完全に立証しうることは極めて少なく、情況証拠を個々に分断して、その一つ一つを個別的に分析し、その結果、犯罪事実を立証するに足りるだけの証明力を持たないとして、これを排斥してしまうことは分析に過ぎるものであって、事実認定のあり方としては問題があり、このような分析的な証拠の評価は悪しき分析主義、あるいは、分断主義というべきである。」との考え方があることも充分に考慮しなければならない。  つまり、情況証拠、間接事実というものは、その一つ一つの証拠だけでは決定的な証明になりえなくとも、全体として被告人が犯人であることを指し示しているときには十介証明力を持ちうるものであって、かかる場合にこれらを分断して排斥することは妥当ではない、という限りにおいて、正論といえるが、他方、有罪方向に働く情況証拠が相当数存在するからといって、個々の証拠についての十分な吟味や分析なしに、安易に犯罪事実を肯定することもまた問題である。分析すると同時に、これら証拠を総合して、全体として、犯罪事実が立証されたかどうかという総合的な判断態度で臨むことが大切であるというべきである。    

(四) 以上を整理して本件一審判決の事実誤認の違法性を判断すると、

 (1) 本件一審判決が、情況証拠に基づいて原告を加害者であると特定していることに問題があることは前示認定のとおりであるが、そこに至る経緯においては、関係者の供述を丹念に検討し、かなり精緻な理論を構成したうえで、原告車両が轢過車両であると認定したものであり、その認定に至る前段階、すなわち、証拠の採否の段階における判断(信用性の有無)に合理性を欠いた誤りを冒した結果、前示認定に至ったのであって、採用した証拠と認定事実との間の齟齬(採用した証拠から認識しうる事実と異なる事実認定)というものではなく、著しく不合理な事実認定と評価することはできない部分である。

 (2) さらに、原告のアリバイを排斥している部分、また、右後輪付着物の付着機序及び轢過態様についても、江守鑑定、上山鑑定ともに欠陥がないわけではなく、船尾鑑定についても、桂鑑定との対比の上でその信用性が判断されたものであり、前示認定のとおり、著しく不合理な判断と解するのは相当ではない。

 (3) ところが、本件一審判決において、唯一問題とすべきは、前述のとおり、異常走行体験供述の内容について、部分的にではなく、事件全体との絡みで検証していたならば、結論を異にする可能性があったのではないかということであるが、前示のとおり、本件一審判決の理由構造が前記4の判断を先行させていることに鑑みると、前記実務的立場からの見方もあり得るわけで、本件一審判決の理由構造に国賠法上の違法を認めることは相当でないといわざるをえない。

 以上を総合すると、本件一審においては、物的証拠、関係者の供述、原告の異常走行体験供述のいずれもが原告の有罪を指向していること、特に右後輪付着物が被害者に由来するとの桂鑑定の正当性が認められれば、右付着物が直接証拠として絶対的な有罪の証拠であるのであるから、本件一審判決が前記4で認定した事実を補強するだけではなく、独立した有罪認定が可能であることを示すものであって、結局は、総合的な評価の下に、原告車両を轢過車両と認定したのであるから、本件一審判決のこの事実認定が、普通の裁判官が合理的に判断すれば、当時の証拠資料・情況のもとでは到底そのような事実認定をしなかったであろうといえるほど著しく不合理な事実認定であったとまでは認めることはできない。


作成責任者:町村泰貴
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