最判平成14年2月22日判時1779号22頁、判タ1149号3頁

大経寺事件

多数意見

1 本件は、被上告人が被上告人所有の第1審判決別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を占有している上告人に対し、本件建物の所有権に基づきその明渡しを求める訴訟である。被上告人は、被上告人を包括する宗教法人日蓮正宗の管長が上告人を大経寺の住職から罷免する旨の処分(以下「本件罷免処分」という。)をしたことに伴い、上告人が本件建物の占有権原を失ったと主張しているのに対し、上告人は、本件罷免処分は日蓮正宗の管長たる地位を有しない者によってされた無効な処分であると主張している。

 原審の適法に確定した事実関係等は、次のとおりである。

 (1)大経寺は昭和41年4月に日蓮正宗の寺院として設立され、上告人が当時の日蓮正宗の管長細井日達から住職に任命され、その寺院である本件建物の占有を開始した。

 (2)大経寺は、昭和51年7月、法人格を取得して日蓮正宗に包括される宗教法人(被上告人)となり、同時に住職である上告人が被上告人の代表役員となった。

 (3)日蓮正宗においては、代表役員は管長の職にある者をもって充て、管長は法主の職にある者をもって充てるものとされ、法主は宗祖以来の唯授一人の血脈を相承する者とされているところ、細井日達が昭和54年7月22日死亡した後、阿部日顕(以下「阿部」という。)が、細井日達から血脈相承を受けたとして日蓮正宗の法主に就任したことを祝う儀式が執り行われ、日蓮正宗の代表役員に就任した旨の登記がされた。

 (4)平成2年12月ころから、日蓮正宗とその信徒団体である創価学会とが激しく対立するようになり、日蓮正宗は、平成3年11月28日、創価学会に対し破門通告をした。

 (5)上告人は、創価学会は日蓮正宗の教義を広めるに当たって多大の貢献があったし、今後も日蓮正宗の教義を広めるために創価学会が不可欠の存在であると考えていたところ、上記日蓮正宗と創価学会との一連の確執の中で、日蓮正宗の法主である阿部の在り方に次第に疑問を抱き、同人が血脈相承を受けていないと考えるに至り、宗祖日蓮大聖人の教えを守るとともに信徒の意思にこたえるために、被上告人と日蓮正宗との被包括関係を廃止しようと考えるようになった。
 そこで、上告人は、日蓮正宗との被包括関係の廃止に係る被上告人の規則変更を行うために、平成4年10月17日、阿部の承認を受けることなく、創価学会の会員でない信徒の中から選定されていた責任役員3名を解任するとともに、新たに創価学会の会員である信徒の中から責任役員3名を選定した。そして、同日、上告人及び新責任役員により開催された責任役員会において、日蓮正宗との被包括関係の廃止に係る規則変更について議決がされ、日蓮正宗に対してその旨の通知がされた。

 (6)日蓮正宗は、日蓮正宗の代表役員の承認を得ることなくされた上記解任行為は違法無効であるとして、これをただすために上告人を召喚しようとしたが、上告人はこれに応じなかったので、上告人に対し、上記解任行為を撤回し、非違を改めるように訓戒した。しかし、上告人は、同訓戒にも従わなかったため、阿部は、平成5年10月15日付け宣告書をもって、上告人に対し本件罷免処分をした。

 (7)上告人は、神奈川県知事に対し、被上告人の規則の変更認証申請をし、同知事は、平成5年2月5日、これを認証したが、日蓮正宗等が審査請求をしたところ、文部大臣は、同年8月4日、同認証を取り消す旨の裁決をしたので、被上告人は依然として日蓮正宗の被包括宗教法人にとどまっている。

 2 原審は、次のとおり判断して、本件訴えを却下した第1審判決を取り消し、本件を第1審に差し戻した。

 上告人は、日蓮正宗内にとどまりながら懲戒処分の効力を争っているのではなく、被上告人と日蓮正宗との被包括関係の廃止を求めているのであるから、日蓮正宗の法主がだれであるかについて利害関係は認められない。本件訴訟の本質的争点は、上告人が、被上告人と日蓮正宗との被包括関係を廃止するために、日蓮正宗の代表役員の承認を受けることなく責任役員を解任し、新たに責任役員を選任した上で行った被上告人の規則変更の効力の有無にあり、その判断は、阿部が血脈相承を受けたか否かという宗教上の問題とは関係なく行うことができる。したがって、本件訴えは法律上の争訟に当たる。

 3 しかしながら、原審の上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

 本件においては、日蓮正宗の管長として本件罷免処分をした阿部が正当な管長としての地位にあったかどうかが本件罷免処分の効力を判断するための争点となっており、本件罷免処分の効力は、被上告人の請求の当否の判断の前提問題となっている。そして、日蓮正宗においては、前記のとおり、管長は法主の職にある者をもって充てるものとされているから、本件罷免処分の効力の有無を決するためには、阿部が日蓮正宗においていわゆる血脈相承を受けて法主の地位に就いたか否かの判断が必要であり、阿部が血脈相承を受けたか否かを判断するためには、日蓮正宗の教義ないし信仰の内容に立ち入って血脈相承の意義を明らかにすることが避けられない。このように、請求の当否を決定するために判断することが必要な前提問題が、宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっており、その内容に立ち入ることなくしてはその問題の結論を下すことができないときは、その訴訟は、実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきである(最高裁昭和51年(オ)第749号同56年4月7日第三小法廷判決・民集35巻3号443頁、最高裁昭和61年(オ)第943号平成元年9月8日第二小法廷判決・民集43巻8号889頁参照)。

 そうすると、被上告人の本件訴えが「法律上の争訟」に当たるとした原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。したがって、原判決は破棄を免れない。本件訴えを却下した第1審判決の結論は正当であって、同判決に対する被上告人の控訴はこれを棄却すべきである。

 よって、裁判官河合伸一、同亀山継夫の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

反対意見1

 裁判官河合伸一の反対意見は、次のとおりである。

 1 裁判所は、憲法に特別の定めのある場合を除き、一切の法律上の争訟を裁判する権限を有するのであるが、この権限は、憲法の保障する裁判を受ける権利と表裏をなすものである。そして、裁判を受ける権利は、基本的人権であり、基本権の基本権ともいわれるものであって、この権利が十全に保障されることは、我が国の社会秩序の基盤を形成するものである。したがって、裁判所の上記権限は、同時に憲法上の責務でもあって、裁判所は、憲法に基づく制約のない限り、すべての法律上の争訟について裁判し、これを解決しなければならない。

 法律上の争訟とは、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものを意味する。本件は、被上告人が、その所有する建物を占有する上告人に対し、明渡しを請求する事件であるから、上記要件の前段を充たしていることは明らかである。このような事件について裁判所が裁判による解決を拒絶するならば、所有者としては、自力救済も許されず、自己の所有権の侵害に対してなすすべがなく、占有者としても、自己の占有ひいては生活関係の安定を得られないままとなり、さらには関係社会にもさまざまな支障が及びかねない。たしかに、本件には、上記要件の後段に関し、多数意見の指摘する問題がある。しかし、私は、その問題にかかわらず、本件の紛争を裁判によって終局的に解決することが可能であると考え、多数意見に反対するものである。

 2 本件においては、阿部の日蓮正宗管長としての罷免処分権限の有無が、被上告人の本訴請求の当否を決する前提問題となっている。すなわち、日蓮正宗において住職の罷免の権限を有するのはその管長であり、管長は法主の職にある者が充てられるところ、上告人は、阿部は宗規に基づく法主の選定を受けておらず、したがって、本件罷免処分をする権限を有しないと主張しているのである。

 記録によれば、日蓮正宗における法主の選定は、血脈相承によってされること、血脈相承とは、宗祖日蓮以来代々の法主に伝えられてきた特別な力ないし権能を、現法主が次の法主となる者に口伝及び秘伝によって伝授する宗教的行為であること、血脈相承がそのようなものであることは、同宗の信仰及び教義の核心をなしていること、そして、本件の当事者はいずれも、これらの点において特に認識を異にするものではないことがうかがわれる。

 日蓮正宗における法主選定行為の性質がこのようなものであるとすれば、裁判所としては、その行為の存否ないし効力の有無を判断することができない。それを判断するためには、血脈相承についての日蓮正宗の信仰ないし教義として何が正しいかを判断した上、その正しい信仰ないし教義にかなった行為があったか否かを判断しなければならないが、そのような判断は、法令の適用によってすることができるものではないからである。

 3 また、憲法は、同じく基本的人権として、信教の自由を保障しているが、この自由の中には、いかなる信仰ないし教義をもって正しいとし、人のある行為又は事実がその信仰ないし教義にかなうものであるか否かの判断(以下「宗教的判断」という。)をする自由が含まれることは明らかである。そして、信教の自由は、自然人のみならず、法人ことに宗教法人ないし宗教団体(以下「宗教団体」という。)も享有するものと解される。したがって、ある宗教団体において、ある行為又は事実についての宗教的判断が定立されている場合には、国の機関たる裁判所は、公序良俗に反するなど格別の事由のない限り、その判断を信教の自由に属するものとして尊重しなければならず、自ら信仰の内容あるいは教義の解釈に立ち入って、独自の判断をすることは許されない。

 阿部が日蓮正宗の信仰及び教義にかなう血脈相承を受けていたか否かの争点につき、裁判所が法令の適用によって判断することができないことは前項で述べたが、さらに、もしこの点について日蓮正宗としての宗教的判断が定立されているとすれば、上記の理由により、裁判所は、それについて自ら判断することが許されないことにもなるのである。

 4 しかしながら、これらのことは必ずしも、本件紛争を裁判によって解決することができないとの結論に直結するものではない。

 信教の自由に対する憲法の保障として、裁判所が、ある宗教団体の前記の意義での宗教的判断を尊重しなければならないということは、単にその内容に介入しないとの消極的意味にとどまらず、さらに、法律上の争訟について裁判するに当たって、その宗教的判断を受容し、これを前提として法令を適用しなければならないことを意味するものというべきである。けだし、宗教団体は、純粋な宗教活動のみならず、その宗教活動のための財産を所有管理し、さらにはこれらのための事業を行うなど、一般市民法秩序にかかわる諸活動をすることを認められている。宗教団体のこれらの活動から生じる具体的な権利義務ないし法律関係の紛争において、当該団体が信教の自由の行使として定めた宗教的判断が裁判所によって受容されず、その宗教的判断を前提とする紛争の終局的解決を得られないとすれば、当該団体は、たとえば本件に見るように、市民法上の法律関係において不安定ないし不利な状況のまま放置され、あるいは、自己の宗教的判断と矛盾する法律関係を強制されることになりかねない。それでは、憲法が信教の自由を保障した趣旨に反すると考えられるからである。

 5 これを本件についてみると、記録によれば、昭和54年に、阿部が前法主から血脈相承を受けた者として法主に就任したことが日蓮正宗の諸機関において承認され、公表されたこと、それ以来、本件罷免処分がされるまでに14年余を経過したこと、その間、阿部は終始同宗の法主兼管長として行動してきたことが認められる。

 これらの事実によれば、本件罷免処分当時には、日蓮正宗において、阿部が前法主から血脈相承を受けて法主に選定された者であるとの宗教的判断が定立されていた可能性があると推認することができる(注)。そして、同宗の宗教的判断としてそのような判断が定立されていたか否かは、裁判所が事実認定に関する法則を含め、法令を適用して判断することができる事柄である。したがって、1審としては、その点について審理し、もし、本件罷免処分時において日蓮正宗のそのような宗教的判断が定立されていたと認定できるならば、阿部が同宗の法主であったことを前提として、その余の点について審理を進め、法令を適用して本案判決をするべきであった。

 しかるに、1審は、阿部についての血脈相承の有無を審理判断することができないことから直ちに、本件紛争が法令の適用による終局的解決に適さず、法律上の争訟に当たらないとしたが、これは、結局、法令の解釈適用を誤り、ひいては審理不尽の違法をおかしたものであって、取消しを免れない。原審の判断は、結論において正当であり、上告は棄却すべきものである。

 注 ある事柄に関する宗教的判断をめぐって、宗教団体の内部が大きく分裂し、異端紛争となっているような事案では、裁判所として、団体の宗教的判断が何であるかを認定し得ないのみか、認定すべきでない場合もあり得るであろう。けだし、そのような事案で、裁判所があえて一方の宗教的判断をもって団体の判断とし、他方を排除することが、憲法が裁判所に要求する宗教的中立性保持のために、許されない場合があり得るからである。いかなる事案がその場合に当たるかは、いずれも憲法が裁判所に求める前記責務とこの宗教的中立性保持の義務との調和の観点から、個々の事案ごとに決しなければならない。たとえば、多数意見が引用する最高裁第二小法廷平成元年9月8日判決の事案はこれに当たると考えられる。これに対し、本件事案は、記録による限り、そのような場合に当たるとは考えられない。すなわち、本件は、上記最高裁判決の事案とは事実関係を異にするものというべきである。

反対意見2

 裁判官亀山継夫の反対意見は、次のとおりである。

 私は、河合裁判官の反対意見(以下「河合意見」という。)に同調するとともに、事案にかんがみ、若干付言したい。

 裁判を受ける権利が国民の基本的人権を守るための最も基本的な権利であり、これを十全に保障することが裁判所の重大な責務であることは、河合意見の説くとおりである。また、信教の自由を存立の基盤とする宗教団体の存在とその社会的活動が是認されている以上、そのような宗教団体についても信教の自由が保障されなければならないこともいうまでもない。

 信教の自由も裁判を受ける権利によって守られるべき権利である上、宗教団体は、信仰を基盤としつつ、その構成員あるいは団体外の第三者との間にも広く、かつ多種多様な世俗的法律関係を作り出していくものであるから、このような宗教団体の宗教的判断に基づく種々の行動等の存否ないし当否について信教の自由に対する不介入の名の下に裁判の回避が安易に認められるならば、宗教団体自身の信教の自由が保障されないことになるおそれが大きいことになるのみならず、宗教団体の宗教的判断を前提とする紛争については、およそ裁判による解決を得られないという事態を招きかねず、当該宗教団体やその構成員のみならず、これらと関わりを持つ一般人のすべてにとって、法的に著しく不安定な状態を招来することになるのであって、裁判所の上記責務に著しくもとるものといわなければならない。したがって、上記のような理由による裁判の回避は、ある宗教的判断の当否を直接判断する結果、内心の意思に反する宗教的判断を公権力によって強制することとなるような場合、あるいは、争いのある宗教的判断の一方に裁判所が軍配を揚げたと受け取られざるを得ないため、裁判所の宗教的中立性に疑念を抱かせるおそれが強いような、極めて限局された場合にのみ許されるべきものである。多数意見が引用する最高裁第二小法廷平成元年9月8日判決が、「(懲戒処分の)効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなすとともに、(中略)その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合には」裁判の回避が許されるとしているのもこのような趣旨と理解されなければならない。

 これを本件についてみると、記録によれば、阿部は昭和54年に前法主から血脈相承を受けた者として法主に就任し、その旨が日蓮正宗の諸機関において承認され、公表されたこと、それ以来、本件罷免処分がなされるまでに14年余が経過し、その間、阿部は対内的にも対外的にも終始日蓮正宗の法主・管長として行動してきたことが認められる。さらに、本件に先立つ昭和55年ころにも、日蓮正宗内部において創価学会との関係をめぐって対立が生じ、当時阿部の採っていた同学会との協調路線に反対する一派の僧侶から同人が血脈相承を受けたことを否定する主張がなされ、これに基づく訴訟も提起される事態になったが、上告人は、当時このような主張にくみすることなく、かえって阿部が法主であることを前提とした積極的な活動を続けてきたことが認められる。また、平成2年末ころ、創価学会との対立路線に転じた日蓮正宗の方針に反対して同宗からの離脱を企図した住職等に対し同宗が寺院の明渡訴訟を提起した事件は、本件訴訟を含めて16件あるが、そのうち、阿部によって任命された住職に係る13件においては阿部の血脈相承を否定する主張がなされていないことも認められる。

 以上のような事実を総合的に考察するならば、上告人は、阿部ら日蓮正宗執行部が創価学会との対立路線に転じたことに反発し、たまたま上告人が阿部の前法主から任命されていたために阿部の法主たる地位を争っても自己の住職たる地位を否定することにはならないことを奇貨として、阿部の法主たる地位を争っているに過ぎず、本件訴訟において阿部が血脈相承を受けた法主であるか否かが当事者間の紛争の本質的争点をなすものとはいえないことが明らかである。したがって、本件は、上記最高裁判決とは事案を異にするものであって、この点が争点となるとしても、河合意見が説くところに従って判断すれば足りることになるのであるが、それ以前に、本件において、上告人が阿部の血脈相承を否定する主張をすることによって訴えの却下を求めることは、上記のような事情の下にあっては、訴訟を回避するために便宜的に争点を作出したとも見られるものであって、信義則違反ないし権利の濫用として許されないものというべきである。けだし、このような主張を認めることは、阿部を法主と認めて世俗的な法律関係を結んだ第三者が、後になって阿部の血脈相承を否定することによって訴えの却下を求めることと本質的に何ら変わるところがないからである。

 以上の次第であるから、本件においては、裁判所としては、阿部の血脈相承の有無に関する主張の判断に入ることなく審理を進めれば足りたのであり、1審判決はこの点において違法といわざるを得ないから、原判決は、結論において正当である。

(百選2事件・山本克己)


判例評釈
山本克己・民事訴訟法判例百選(第3版)2事件

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